2008年05月06日
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下高井戸分水の向陽橋合流説・参考文献の確認完了・実は震源地は1人だった?

Written By: 川俣 晶連絡先

 また東京都水道歴史館の閲覧室に行って来ました。

 解決できた問題と解決できない問題が残りました。以下それをまとめます。

向陽橋合流説の根拠 §

 下高井戸分水が向陽橋で神田川に落ちるという「向陽橋合流説」について、

  • 図解・武蔵野の水路 -玉川上水とその分水路の造形を明かす- 渡部一二 東海大学出版会 2004年8月5日 第1版 第1刷

 が述べていましたが、それに先行する

  • すぎなみの水紋様 玉川上水 恩田政行 青山第一出版 1999年10月1日 第1刷発行

 にも同じ解釈が記述されていることを発見しました。

 この書籍では、向陽橋である根拠が明記されています。

「昭和35年(1960)頃までは、玉川上水に架かる旭橋(下高井戸4-2)の上流約100mの左岸(同5-3)より取水して、この付近一帯の田3町歩(1町歩=99.17a)を灌漑し、向陽橋(同3-40)たもとで神田川に落ちていた(原文)」と調査記録にある。

 ここまでが昨日までの経緯です。ここからが今日の成果です。

 この記述は以下の書籍の引用だとされます。

  • 玉川上水に関する用水路網の環境調査 1980 海部一二 (多摩美術大学)

 しかし、このような書籍は見つかりません。

 東京都水道歴史館の蔵書にも無いそうです。(本当に無いのか、後述のように名前が間違っているので見つからなかったのかは不明)

 書籍名、著者名が微妙に異なり、出版主体も違っていますが、都立図書館の蔵書検索で発見した以下の書籍がそれではないかと推定します。

  • 玉川上水系に関わる用水路網の環境調査 渡部一二 とうきゅう環境浄化財団 1980

 とすれば、渡部一二とは「図解・武蔵野の水路」の著者と同一人物ということになり、向陽橋合流説の根拠は全て渡部一二という1人の人物に集約されることになります。

 この発見が今日の成果です。

 取りあえず、「玉川上水に関する用水路網の環境調査」を確認するか、渡部一二という人物に質問することができます。機会を見て、この先のことを考えてみましょう。

より古い状況 §

  • すぎなみの水紋様 玉川上水 恩田政行 青山第一出版 1999年10月1日 第1刷発行

 には、もう1つの引用があります。

大正5年(1916)頃の記録によれば「下高井戸村地内に於いて玉川上水より分派せる一支流は、(中略)、後神田上水の支流と合して、和田堀内村(和泉地区)に入る(原文)」とある。

 この文章の引用元は、以下の文書です。

  • 東京府豊多摩郡史 (1930) 東京府豊多摩郡役所

 残念ながら東京都水道歴史館には無いようで、原文の確認はできませんでした。

 しかし、『文化財シリーズ26 甲州道中「高井戸宿」 杉並区教育委員会』にあった、分水は隣村の小川に落ちるという記述と符合します。そして、この小川は神田上水の支流だという仮説が、この記述から補強されます。この支流は、おそらく現在の向陽中学校南部の境界線に沿って流れていた水路だろうと予測します。昭和22~23年頃の航空写真で見ると、下高井戸分水と思われる水路は、確かにこの川に繋がっています。

 とすると、この時点での下高井戸分水は支流との合流点までであり、その先の流れは下高井戸分水ではない、ということになります。しかし、「玉川上水の歴史と現況 東京都環境保全局 昭和60年3月31日発行」では、その先の流れまで含めて下高井戸分水として扱っています。どこまでが下高井戸分水なのか、という点にも疑問が残ります。

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